Angela Carter アンジェラ・カーター

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日本で最新翻訳作品「花火」九つの冒涜的な物語
2010年8月25日
花火、九つの冒涜的な物語

著者名:アンジェラ・カーター/著
訳者名:榎本義子

出版社名:株式会社アイシーメディックス
編集:旺麗言舎
発行年月:2010年8月25日
ページ数/版型:239ページ/四六判
ISBN:978-4-434-14625-1


 1974年に出版された短編集FIREWORKS: Nine Profane Pieces (Quartet Books Limited)は、ある意味でカーターの日本体験が結実した作品である。もっとも、日本を舞台にしているものは9作品中3編だけで、他の作品はテーマも舞台も異なる、不思議な〈はなし〉である。「花火」は同書の1987年Penguin Booksの全訳である。

 花火の場面で始まる第一話「日本の思い出」は、作者を思わせるイギリス人女性の「私」と日本人男性「彼」のひと夏の恋を描いた作品。性愛の対象としての男と女、他人を理解することの難しさなどについて考えさせられるが、カーターの日本文化論として読んでも興味深いだろう。

 第二話「死刑執行人の美しい娘」は、架空の山岳地帯を舞台にして、近親相姦というタブーに挑戦した物語である。死刑執行人は、息子を処刑した場所で娘を犯す。どんな時でも決して仮面を外さない死刑執行人の不気味さと純粋で可憐なその娘の美しさが際立つ。

 第三話「紫の上の情事」は、日本の文楽とエロティックなアダルト・コミック、それに西洋の「吸血鬼」伝承と「眠り姫」を素材にしている。性的残虐さで男性を翻弄する「紫の上」を演じる人形が、人形遣いのキスによって人間に目覚める迫力のある〈はなし〉である。

 第四話「冬の微笑」では、日本の冬の漁村の風物が、感覚に訴えかける表現を駆使して描写されている。カーターが一時期滞在した千葉が舞台になっている、と思われる。

 第五話「森の奥まで達して」は、エデンの園のような村に育った、アダムとイヴを思わせる双子の姉と弟が、禁断の木の育つ森の奥に探検に出かけ、男と女に目覚めていく物語である。

 第六話「肉体と鏡」は第一話と同様に、「私」と「彼」の恋の物語。3ヵ月ぶりにイギリスから日本に戻った「私」は、迎えに来てくれるはずの彼に会えず、行きずりの男とラブ・ホテルに行く。ホテルの天井の鏡を、自分とは何か、また他者を愛することの難しさを考えさせる媒体として用いているところが興味深い。

 第七話「主人」では、アマゾンの奥地を舞台にして、『ロビンソン・クルーソー』を反転させた世界が描かれている。残忍な白人のハンターと「フライデー」と名づけられた無力な少女の主従関係が、少女が銃の使い方を覚えたことで逆転する。野生に戻った少女にハンターが殺される結末は、性差別を作り出した文明批判とも読めるだろう。

 第八話「映像」は、まさに鏡の〈はなし〉である。森の中で普通の貝とは逆の方向に巻いた貝を見つけた青年が、銃を持った少女に拉致されて古い屋敷に連れて行かれ、そこで両性具有者に命じられ、鏡の世界に入って行く。あらゆることが逆転した鏡のむこうの世界は、不思議な、スリラーのようなおもしろさがある。

第九話「フリーランサーに捧げる挽歌」は、内戦勃発直前のロンドンで、主義のために殺人やリンチを行う革命を夢見るテロリスト集団の物語であるが、どこかカーターが日本に滞在していた1970年前後の社会的、政治的変動の時代や、あさま山荘の「連合赤軍」を思い出させる。

このように、この短編集に収められている作品は多種多様であるが、日本を舞台にしたものだけでなく非現実的な〈はなし〉も、カーターの日本体験を基にして生み出されたとも考えられる。第六話「肉体と鏡」の中で、異国で暮らす「私」は、日々の暮らしでも、「誰か他人の夢の中に投げ込まれている」ような、自分と外界の間にはガラスがあるような奇妙な感覚を覚える。この日常性の中に潜む非日常性の感覚は、カーターの想像力と創作力を刺激し、ここに収められた作品をまとめる鍵のひとつになっているのではないだろうか。また、「冒涜的な物語」というこの短編集の副題が示すように、九つの短篇に描かれているのは、ユダヤ・キリスト教文化の持つ価値観を揺るがす、あるいはその外にある世界である、とも言えるのではないか。この短編集に何故『花火』という題名がつけられているか、考えてみるのもおもしろいであろう。

日本体験は作家としてのカーターに大きな転機をもたらし、『花火』はひとつの分岐点であると言える。カーターの初期の作品は1960年代の都会を舞台にしており、そこにはイギリスの伝統的なリアリズム小説の要素が見られるが、日本滞在以降の作品では、『花火』に見られるような現実と非現実が不思議に交錯するマジック・リアリズムの手法が冴えを見せる。カーターは「私は日本で女であることがどういうことかわかり、急進的になった」という有名な言葉を残しているが、日本滞在以後、彼女はフェミニストとしての立場を一層明確にしている。