Angela Carter アンジェラ・カーター

日本での生活


【アンジェラ・カーターと日本】

 アンジェラ・カーターのユニークな生き方、そして日本とのかかわりも注目に値するだろう。1969年の秋に、29歳のこの作家は初めて日本を訪れ、2度の一時帰国をはさんで、1972年まで滞在した。1974年には短期の休暇で再び日本を訪れている。カーターが日本に滞在した1970年前後は、社会的、政治的、経済的にも変動の時代であり、大学紛争、大阪万博、三島由紀夫の自決、赤軍派学生によるよど号ハイジャック事件、そして連合赤軍あさま山荘事件など多くの出来事があった。彼女は、こうした激動の日本を独自の視点から見て、エッセイを書き、主に新左翼系の雑誌『ニュー・ソサエティ』に掲載した。

 何故彼女は、一般のイギリス人にとってはまだ遥か遠くの極東の国である日本に来たのであろうか。カーターは1940年にサセックス州のイーストボーンで生まれた。本名は、アンジェラ・オリーヴ・ストーカーである。大学受験に失敗して、新聞社で働いていたが、20歳で教員のポール・カーターと結婚して仕事を辞め、ブリストル大学で英文学を学んだ。来日以前に、彼女は3つの作品を発表しているが、第3作『さまざまに感じる』(1968)が、受賞者に一定の期間の外国滞在を条件づけたサマセット・モーム賞を受賞し、その賞金500ポンドを手に日本に来た。カーターは、日本を滞在地に選んだ理由を「現在にも過去にもユダヤ・キリスト教に一度も染まったことのない文化の中でしばらく暮らし、それがどのようなものであるか見てみたかったため」と述べている。

 日本でカーターは、高田馬場に住み、最初若い日本人男性と付き合い、次に18、9歳の在日韓国人の男性と1年間同棲するようになった。この二人の男性とのかかわり合いは、カーターに人間の性について、性愛の対象としての男と女、見られる存在としての身体などの問題を考えるきっかけを与えたのではないだろうか。彼女は、ユダヤ・キリスト教倫理、道徳に縛られていない日本人の特徴のひとつとして、性の面で抑制されていないことに注目しているが、異国の、他人の目を気にするする必要のない環境の中で、彼女自身も性的に解放されたと言えるだろう。

 カーターは日本のどのようなものに興味を持ったのだろうか。銀座のバーのホステス体験などもしたこの作家の心をとらえ、想像力を刺激したのは、いわゆる日本の大衆文化と言われるものであり、大きく二つに分けられるだろう。一つは、花火や刺青など、美しく、見る者に不思議な感覚を与えるものである。もう一つは、ラブ・ホテル、アダルト・コミック、人間くさい神々のセックスで味付けされた神道の祭りなど、日本人の性意識を反映したものである。また古典芸能では、人形が生身の人間よりもっと純粋に人間の情念を表現する文楽に興味を持ち、作品に取り入れている。

 1972年にイギリスに帰国後、カーターは精力的な執筆活動の傍ら、英米の大学で教鞭もとった。私生活では、1972年に別居していたポール・カーターと離婚したが、作家アンジェラ・カーターとして名が知られていたため、離婚後もこの名前で執筆活動を行った。1977年からロンドンで陶芸家マーク・ピアスと暮らし始め、1983年には長男アレクザンダーが誕生した。43歳で初めて母親になり、創作活動も充実している最中、1992年2月にアンジェラ・カーターは肺癌のため51歳でこの世を去った。短いが、人間として女性として、望むものすべてを手に入れた充実した生涯だった、と言えるだろう。